やけ酒飲み

わたしは、二十になった頃から、やけ酒飲みだった。

主役と脇役

ついさっきまで、NHKでやっていたドキュメント72hoursって番組を観ていた。

日本中のとある場所を72時間撮り続け、そこに来た人にインタビューをするという面白い番組で、今回の場所は大阪・天神橋筋商店街のベンチ。買い物途中の人や、待ち合わせの人がインタビューに応えていて、どれも平凡なんだけれどいきいきとした語りで微笑ましかった。

とくに印象に残ったのは、1日目と2日目に登場した酒飲みのお兄ちゃん。家に帰って飲むと家族に怒られるから、ベンチで晩酌をしているとのこと。家って心の居場所の代表だと思っていたんだけれど、この人にとってはこのベンチが居場所であり現実からの逃げ場なんだなあと思うと、切なくなると同時に自分の居場所を手探りで見つけ出したこの人の強さに感動してしまった。他にも、HIVの男性や薬物で逮捕され保釈中の男性等も登場して語っていた。通りすがりの人なんて”背景”みたいなもので、普段その人々に興味を示すことなんて滅多にないけれど、スポットライトを当てた途端にこんなにも興味そそられる存在になる。インタビューを終えて人並みに紛れていく語り手たちを見て、ちょっと考えれば当たり前なんだけれど、一人一人が主人公になったり脇役になったりを繰り返して人間って生きているんだなあと思った。歌人である斉藤斎藤さんの「君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景に戻った」って短歌を思い出した。さて、こっちの斎藤さんは2月20日現在、2月に入ってまだ2回しか外出していないというだめっぷり。離職票も届いたので、近いうちハローワークに行かなきゃならない。もちろん髪を黒くして。 とりあえず、にんにくペヤング食べるのを躊躇うような生活に戻れるよう、がんばります。

進路と逃げ場


お久しぶりの更新。やっぱりブログの習慣化って難しいですね。

ここ1カ月くらいで、世の中は色々な事件やゴシップでいっぱいになってしまったようですね。もう1年分のネタを出し切ってしまったのではなかろうか。

ベッキーと甘利大臣がデキていてゲスの極みが解散で清原が献金貰ってSMAPがシャブやったんでしたっけ?テレビ観ないからよくわからんのですが、ツイッターは情報が錯綜していてよくわからんし、まあこんな感じなんでしょう。


世の中のめまぐるしい変化に倣うように、自分自身もこの1カ月ほどで色々やっちゃいました。

かいつまんで言えば、上司と揉めて仕事を辞め、無職生活へ突入です(正式に言えば2/7までは有給消化期間)。

今までは辞めてもすぐに新しい職場を見つけてなんとかやってきましたが、今回は雇用保険加入期間が12カ月以上あるので、失業給付を貰おうと思っています。

そして、いい加減精神保健福祉士として働こうと思っています。3年間のバイト生活も終わりです(最後は契約社員だったけど)。

第二の人生は、本当に今まで借りたたくさんの恩をたくさんの人に返さねばと思っている次第です。はい。


世の中の話に戻りますが、ニュースを観ていると、本当に絶望的な状況まで落ちてしまった人を見ると言葉が見つからず、目をそらしてしまいます。

TV局に抗議の電話をかけたり、返信がこないのを良いことにツイッターの当事者アカウントに罵詈雑言を吐いたりする人がけっこういるようですが、絶望の渦中にいる人にトドメを刺すようなことをなぜわざわざするのかなと思います。被害者や関係者が言うのならまだわかるけれど、アカの他人がなぜそこまで責め立てることができるんだろうと。


窮地にいる人はまず逃げていいんじゃないでしょうか。もちろん法律や社会規範からではなく、大衆からです。逃げて、自分と現状についてしっかり考える時間を経てから、大衆に釈明と謝罪をすればいいと思うんです。でないと死んでしまう。

大衆は、罵詈雑言を言うのではなく、まずは逃がしてあげましょうよ。騒ぎ立てるのって、なんか醜いです。


最近〈逃げ場〉という発想が浮かんできて、ノートに書き留めたり関連書籍を読んだりしています。

社会に生きづらさを感じている子どもや障害者、生活困窮者等のための〈居場所〉については理論も実践も進んでいます。でも〈居場所〉に留まるまでもなく、すぐ元いたところへ戻りたいと思っている人や、馴染める居場所を見つけられない人のための一時的、中継地的な役割として、今いるところからの〈逃げ場〉があってもいいんじゃないかと思うんです。

まだ着想の段階なので実際は必要ないのかもしれないし、数日経てば忘れるような話なのかもしれないけれど、久しぶりに修士での研究題材になるような着想が生まれたのでうきうきしています。


そう、大学院にもやっぱりまだ行きたいと思っているんです。ずっと行きたかったし。

だから、勉強もしようかなと思っています。金銭的余裕はないから、行けないとは思いますが、やるだけやってみたい。


なんか下手くそに世の中の話と自分の進路が繋がったので、書き終えます。


最後に、ゆるめるモ!の『逃げろ!!』を聴いてみてください。今日このブログを書こうと思ったきっかけになった曲です。




ゆるめるモ!「逃げろ!!(Road to BLITZ Memorial Movie)」


 

  

酔っ払い

酔ってます。

酔ってますので、いつも以上にヘッタクソな文章かと思いますが、よろしくお願いします。

読んでくれてありがとうね。

酔うと人が好きになります。

好きになるは盛りすぎかもしれないけれど、いつも以上に他人の行動や目線に鈍感になる。

いつもは、見知らぬ他人の動き一つ一つが、自分に対して向けられている否定的なものだと錯覚するんだけれど(錯覚だっていうことはシラフの時でもわかってる)酔うとそれが鈍感になって、他人が気にならなくなる。

きっと酔った時の鈍感な自分は、常人の感覚に近いんだと思う。ほんと、アル中になるべき人間なんだと思う。

なぜ他人を気にするのか、それは自分に自信がないからだ。自分を必要以上に卑下しているからだと思う。

自分に自信が持てない。だからお洒落をする。ブログを書く、twitterをする。

本当の自分を出すことが怖いから、自分のうちの他人に見せられる一部分だけをクローズアップして、装飾して晒す。

なんで酔っ払った時の自分を普段出せないのだろうと、いつも後悔しております。

自分のことが大好きな人、うらやましい。

拭き方

また靴下に穴が空いた。もう破れていない靴下がほとんどない。

だいたい履き始めて3カ月くらいでご臨終になる。いつもかかとのあたりに小さい穴ができて、それが数日で手の爪ほどの大きさになる。つま先の方は滅多に破れない。いつもかかとだ。

これ、普通なんですかね。

もしかしたら靴下は数週間で買い替える消耗品なのかもしれないし、一足数年は履けるものなのかもしれない。周りの人が一足の靴下をどの程度履き続けているのかなど、尋ねたことがない。自分がもし常識はずれだったらと思うと、なんだか恥ずかしくて尋ねづらいのである。

お食事中の方には大変申し訳ないのだが、話は「ケツの拭き方」に飛ぶ。

自分が当たり前だと思っているケツの拭き方も、実は特殊なのかもしれない。汚い話なので詳解はしないが、自分は前から後ろに拭くタイプである。逆に後ろから前に拭く人や、スライドではなくつまみ取るタイプの人、ケツをフリフリさせながら拭く人等もいるのかもしれない。

トイレという密室空間で行われる日常作業(う○このことです)は特殊な性癖でもない限り一人で行うものであり、親からのトイレットトレーニングを終え、一般のトイレで用を足すことになった時の記憶などほとんどの人は持っていない。したがって、そこでの一連の動作はほとんどの人が「我流」になっているはずである。

何が言いたいのかというと、この「我流」を「当たり前」と錯覚しているのってなんだか面白いなあと思うのである。

例えばの話だが、トイレに鍵がかかっておらず、誰もいないと思って入ったら父親が片足を上げながらケツを拭いていたとする。この父親は、うん十年間ケツを拭く時は片足を上げるのが当たり前だと思っていたのである。もちろんその後家族全員で父親を笑いの種にするのだが、しかしここで皆ふと思うのである。「じゃあ正しい拭き方ってなんなんだ」と。

これは短編小説が書けてしまいそうなほど、面白いネタだと思う。自分が当たり前だと思っている日常的な動作や習慣が、実は滑稽で特殊なものなのかもしれないのである。

靴下を3カ月で履き潰すということを恥ずかしながら公表したので、皆さんはどうなのか教えてほしい。本当はケツの拭き方も訊きたいのだが、これは法に触れる可能性があるのでやめておきます。

本当に訊けないような日常行為については、胸の奥にしまったまま墓場まで持って行こうと思う。

成人式

朝から振袖、袴の人たちがたくさんいた。そうか、今日は成人式か。ああー、成人式か。


成人式の思い出は希薄である。式はだいたい地元の会場で行われるので、会う人たちは中学卒業時の友達がほとんど。自分は中学校に行っていなかったので、気まずいったらありゃしないのである。ということで地元の成人式には出席していない。

当時一般(社会人)の吹奏楽団に所属しており、某区の成人式で演奏をすることになっていた。地元の式には出たくないが、一生に一度の成人式くらい経験しておきたいと思い、奏者としてそっちの式典に出ることにしたのである。

綺麗に着飾った同年代の人たちは楽しそうで、羨ましいなーと心の底から思った。でも小さい頃に思い描いてた20歳像には、どの人も当てはまらなかった。


子どもの頃は20歳がとても大人びて見えたし、憧れもあった。ただ実際になってみると、全然大人なんかじゃない。大人になりきれていないまま「大人」と呼ばれること対する不安感だけがとてつもなく大きかった。


大人かどうかは、年齢だけで決まるものじゃない。ひとりひとり、大人になる時期は違うんだと思う。

浅田真央ちゃんなんかは、16歳くらいでもう大人の仲間入りをしている。氷上の真央ちゃんを観て「子どもがまわってる」なんて誰も言わないだろう。

反対に、25歳の自分が大人かと問われれば、苦笑いするしかない。何もできてやしない。

大人って、そういうものだと思う。


成人式を終えて晴れて「大人」と呼ばれるようになったみなさん。

こんなことを言っていいのかはわからないけれど、まだまだ子どもを名乗っていいんじゃないかなと思います。

大人っていつの間にかなっているもので、突然「ハイ大人」ってなるものじゃないと思っているから。そして、ひとりひとり大人になる時期は違うから。

大人と呼ばれるプレッシャーに潰されそうになるくらいなら、子どもだよって開き直った方が絶対いい。

昨日と変わらずゆるゆると生きていればいいんじゃないかなって思います。


成人式お疲れ様でした。成人おめでとうございます。



新年初飲み

今日は食レポです。ぐ◯なびレビューっぽく書くんでシクヨロ。

新年初居酒屋へ行って参りました。

場所は新さっぽろduo内の三ッ星ザンギ居酒屋店さん。

(http://www.sunpi-duo.com/shop/detail.php?id=232)

昼は激安ランチ、夜は居酒屋になるらしいです。

席はカウンターと小上がりとテーブルがあり、案内されたのはテーブル席。18時ごろ行ったのであまり混んではいなかった。一人飲みのサラリーマンさんが数人いました。いいなあ一人飲み。

料理は「厳選」「小粋」「蝦夷」の3つのお品書きの中から選べるというなんとも凝った仕様。メニューの細かい説明も店員さんが丁寧にしてくれました(覚えるの大変だろうな…)

飲み放題は90分980円。クーポン使うと120分になるのかな?そして店名にもなっているザンギですが、なぜかメニューに載っておらず…。

店員さん曰く、あえてメニューには載せておらず、最初の時点で「メニューには載っていないのですがザンギは◯◯円です…」と説明して注文してもらうそうな。なるほどこれはなかなか断れまい。

店名にもなっている看板商品なので迷わず注文。

お酒はジンジャーハイボール、あとはいつも通り冷奴を頼みました。

頼んではいないけど、モツ酢や牡蠣の漬けなんかも美味しそう。25歳過ぎてからはオヤジ臭い食べ物ばかり目に留めてしまいます。

それにしても冷奴が居酒屋相場より100〜200円ほど高い。なんでだろうと思いながらも待っていると、早速店員さんが持ってきました。

一見なんの変哲もない冷奴。うん、こりゃただのとうふだ。

しかし次の瞬間、店員さんが持っていた秘伝のタレをちまちまぷるぷると(本当に震えてました、子鹿の脚みたいに)かけてくださいました。その後に「今からかけるオリーブオイルは、満月の夜にしかとれないと言われる特別なオリーブオイルです!」と言いながらオリーブオイルをポトリと投入。f:id:korokkekorori:20160108233812j:plain

↑こんな感じ。満月じゃなくなってる…

なるほどそれだけ希少なオリーブオイルを使っているのなら値が張るわけだ。

実際そんなオリーブオイル聞いたことないのですが(も◯みちもビックリでしょ)可愛い店員さんがそう言っていたので、そうなんだと思います。

男山の熱燗を一合飲んで気分もよくなり、なんだか行動意欲も湧いてきた。明日から頑張るぞ。俺はできる人間なんだ。

カマンベールチーズのから揚げと冷しトマトも食べ、胃の中脳の中はパーリー状態でした。おっぺけぺー。

良い気分のままお会計。十分食べ飲みして、3000円いかないという超リーズナブルなお店でした!また行こー。

新年初飲みは本当に楽しかった。嫌なことも今日だけは棚上げ。楽しい気分のまま、おやすみなさいです。

街へ出て、書を読もう

twitterで今日は書かないよと告知してしまったのだが、書きたいので書く。毎日ある程度思考をアウトプットしないと、なんだかスッキリしない。頭の中が整理されない感じがするのだ。

頭の中といえば、頭の中で考えたこととそれを実際にやってみたこととの差が激しいことがよくある。自転車の乗り方をいくら教わってもすぐに乗れるわけではない。野球の理論ばかり学んでも野球が上達しないのと同じように、なんでも実践してみないことにはそのものの本質はわからないのだなと思う。

自分は読書が好きなので、だいたい物事を考えることから入り、外に出るのが嫌いなので、やってみるということをあまりしない。それでしくじることが多い。

だいぶ前に、ある大人に「研究者向き」と言われたことがあった。当時は大学院にも行きたかったし、純粋に褒め言葉として受け取っていたのだが、今考えると頭の中で考えてばかりいないで、経験や実践に重きを置けという忠告だったのではないかなと思う(全然そういう意図はないかもしれないが)。世の中には理屈ではまかり通らないことが山ほどあるぞ、と。

ただ素のまま実践するということは自分にとって恐怖でしかない。間違うことが怖いのである。中学時代、英会話塾の先生が「義務教育になっているにも関わらず日本人が英語を習得できないのは、発音や文法の失敗を恐れているからだ」と言っていたが、本当にその通りだと思う。自分が重度の英語嫌いなのは、間違いなくそのせいだ。常に答えを出し続けていたいという気持ちが強い小心者なのである。

今すぐ「間違えてもいいじゃないか」という楽観的思考に切り替えることはできない。できないが、とりあえずそれが一番大事なことだというのはわかっている。少しずつ、やってみる。わかった気にならず、とにかくやってみる。これを今年の目標にしようと思う。書を読むのはその後でいいのだ。

読書は大事だ。とか、本を読む人は頭がいい。とかいう言説に出会うことがよくあるが、全然そんなことはない。ビジネス書を何十冊と読む人よりも、毎日頼まれたコピーを取り、営業に出かけている人の方が頭がいいに決まっているのである。