やけ酒飲み

わたしは、二十になった頃から、やけ酒飲みだった。

タイトルは好きなキャラ

毎日書く気ではなかったのに、1日でも欠けてしまうとなにか勿体無い気がして、なんだかんだ今日も書いている。こういう変なところにかぎって勤勉なのである。

いつもはタイトルを決めてから文章を書き始めるのだが、今日はまだタイトルを決めていない。書きたいことが出てこないので、思うままに書き連ねてみることにする(本当に思うまま書き連ねてしまうと下品かつ悪文になってしまうので、多少推敲してます)。

今、自室でブログを書いている。布団の上でうつ伏せになって文字を打っている。本棚を置いたせいでベッドが置けなくなったので、一昨年くらいから敷布団で寝ている。ベッドにはもう戻れないと思う。
周りを見渡してもこれと言ってネタになるようなものは見当たらない。左壁にはびっしりと本棚が置かれ、入りきらない本たちでひしめき合っている。真ん中の壁は窓になっていて、窓の下にはカラーボックスが3つ置かれている。中身はもちろん本。こっちは文庫とコミックがメインで、まだ多少余裕がある。右壁は本は無くクローゼットになっていて、着ない服が半分入っている。これいい加減売らなきゃなー。誰か買いませんか。本棚の上には大量のぼのぼのが……そうだ!ぼのぼのについて書こう。今日はぼのぼのの良さをここで全世界に発信してやるぞ。覚悟せい。

ぼのぼのは、いがらしみきお先生作の漫画である。主人公のぼのぼのが、島にいるたくさんの仲間たちと遊んだり悩んだりして生活する、ハートフルな物語である。友達のシマリスくんはいつも一緒に遊んでいる親友で、ぼのぼのと考え方も近いようであるが、もう一人の友達アライグマくんはぼのぼのの言動や行動に腹を立て、よく彼らを”いぢめ”ている。ぼのぼのは哲学者のように当たり前と言われていることに疑問を持つ。スナネコドリさんのような賢人(人じゃないか)は疑問を共有してくれるが、アライグマくんやその父、シマリスくんの姉らには呆れられている。確かに、ぼのぼのの言動は真面目な人間を苛立たせるかもしれない。ためしに手元にある、いがらしみきおぼのぼの名言集 上』(竹書房新書)からぼのぼのの発言を拾ってみる。
「どの石がボクを好きなのかわからないなァ」(p.14)「はじめての人と遊ぶのは すごくむずかしいのだ なぜって はじめてだからだ」(p.228)等々…たしかに学校にこんなやつがいたら、真っ先にいじめられるだろうな。教師も厄介者として扱うかもしれない。

ぼのぼのは圧倒的に弱い。アライグマくんにぶたれても貶されても、反論することはほとんどなく「そっかァ」と丸め込まれてしまう。丸め込まれても、次の日には別の疑問を持ってくるのであるが…。アライグマくんは島の中では最も”社会に近い”子どもである。くだらない疑問を持ってはいけないこと、出来るだけ大人に倣っておけば怒られないことを知っている。個性を消して、社会に同化すればそれが一人前であるということに、薄々気付いている。 ただそう考えると、社会にぶたれても貶されても丸裸でそれを受け止め、また次の疑問を持ってくるぼのぼのはとても強いのかもしれない。圧倒的に無防備であればあるほど強いのである。世渡りの下手くそな自分はそんなぼのぼのに魅了され、今のままの自分で明日も生き抜こうと励まされているのである。

この間うちの店にきた美人営業ウーマンさんに「なんだかぼのぼのに似てますね」と言われた。この上ない褒め言葉である。ありがとうございます好きです。

ラジオ

さくらももこって本当にちびまる子ちゃんな声してるんだな。

今日は身体ぶっ壊して一日中寝ており、布団から出る気が全くなかったので、前々から登録しようか迷っていたradikoプレミアムに登録した。月額350円でエリアフリーで全国のラジオが聴けるのだ。いえい。

早速Bluetoothスマホとコンポを繋げて色々聴いてみる。なるほど、ラジオ特有のノイズは全くなく、クリアだ。俺は多少ノイズがある方がノスタルジックで好きなのだが、まあいいや。かがくのちからってすげー。関西や沖縄の番組も聴けるし、ローカル番組のせいで聴けていなかったニッポン放送の番組も聴ける。とにかく便利だ。

ラジオはテレビと違って、気を抜いて聴くことができる。ユースケサンタマリアか誰かが前に、テレビが観れなくなった時期があってラジオに救われたと言っていた。テレビは大衆向けで、安全で、楽しいものだ。大衆に馴染めない、危険な、つまらないものは排除される。そういう表面的な建前に耐えきれなくなった人にとって、ラジオは安息の地になるのだと思う。

自分がラジオを聴き始めたのは確か中2の6月頃だったと思う。ちょうど学校に行けなくなった時。昼頃に起きてAir-G(FM北海道)の洋楽チャートをチェックし、25歳男性の設定でリクエストを送っていた。なんだこのクソガキって感じだ。土屋礼央のオールナイトニッポンを聴くようになってからは完全に昼夜逆転の生活に突入。テレビの中では綺麗なアカペラで有名だった土屋礼央が、ラジオでは下品な下ネタとギャンブルの話をしている。なんだこれすげー面白いぞ。こんなラジオを夜中に聴けるなら学校なんか行かない方がいいと思ったくらいだ。

友達と即興でラジオ番組を作ってMDで録ってみたり、ジングルを作ってボイスレコーダーに吹き込んでみたり、ラジオの思い出は本当に多い。

と、ここまで書いて伝えたいことがよくわからなくなってきた。学校行かなくなって裏の世界に突入し、ラジオに出会ったおかげで変われたみたいにおさめればハッピーエンドになるのだろうが、そんなことはないし、ラジオもそんな扱いは望んでないだろう。実際ラジオのせいで生活習慣乱れてニキビっ面になったわけで、そんなに賞賛できるものじゃない。

それでも一つだけ言えるのは、ラジオは万人の味方だということだ。疲れている時には聞き流せるし、元気な時には盛り上がれる。テレビを観ていて時々感じる「させられる感」がない。笑いたくないのに笑いを強制されたり、泣きたくないのに感動を強制されたりしない。それがラジオの特徴であり効用であると思っている。

それはそうと、ラジオから聴こえる二階堂ふみの声は実にいやらしい。いやらしいなあ。

モチベーション

やる気を起こしたい。勉強をしたいのだ。

数年前から「来年は計画通りに勉強するぞ!」と心に決めて元旦を迎え、3日目くらいで挫折するということが続いている。

忙しさもあり、毎年ここ数日でやる気がどんどん滅入っていくのが恒例行事だ。

そもそも、俺のやる気っていうのはほとんど「悔しさ」から来ている。

学生の時は、アイツより良い点数獲ってやるぞとか、経歴の長いやつより上手くなってやるぞ(吹奏楽部だった)とか、他人に負けたくないの一心で動いていた。

そう考えると、今って学生時代と違って、比較するものがないんだよね。

昔の同級生は今じゃ多様な人生を送っていて比べようがないし、今の職場に従業員一斉テストがあるわけでもない。だからやる気が出ないんじゃないか。

案外、学校教育みたいな比較・競争システムが自分に一番合ってたのかもしれないなあと思う。昔は画一化されてるのが嫌だとか言ってたけど。

今日は競争相手のいない今の自分のやる気をどう奮い立たせるか、考えてみたい。

1.昨日の自分と比較

比較する他人がいないなら自分と比べるしかない。昨日の自分と今日の自分を比べて「これだけ覚えた」「これだけ出来るようになった」と自分を評価していく。

2.比較主義の放棄

私は私、他の誰でもないOnly Oneなのよ〜精神である。別名世界に一つだけの花精神。これができれば苦労しない。俺は根っからの比較主義者である。

3.昇華

精神分析学でいう防衛機制の1つで、ある欲求を、社会的に良いとされる方法で発散させること。今日も仕事で最悪なクレーマーに当たって名前まで聞かれたんだけど、このクレーマーまじ死んじまえクソって思う気持ち、悔しさを勉学で解消するみたいな。比較対象そのものを変えるやり方ですね。

4.ご褒美

ここまでやったらクッキー1つとか。自分で自分にご褒美をあげて成功した試しがない。気付いたらクッキー1箱食べて寝てる。

こう書いてみると、1か3だよな。でも3は上手くいった試しがない。だってムカつく出来事が勉強することで解決されるわけじゃないもんね。テストで負けてムカついたからそいつより良い点を獲るっていうのとは全然話が違う。

やっぱり1の「昨日の自分と比較」で今年は頑張っていきたいと思う。生涯発達!螺旋階段成長!

余談だが、だいぶ昔に流行った(今も流行ってる?)スキルアップ、資格取得ブームみたいなのって、俺みたいな比較主義者たち、学校教育で比較されることに慣れて社会に出てもテストを受けることが働くモチベーションになってるような人たちが起こしたんじゃないかと思う。資格って比較対象として最適だし。

この辺は承認欲求みたいなものも絡んでくる気がする。俺はやっぱり認められたいんだな。うん。

ブログも昨日より今日、今日より明日の方が面白くなるように精進しますです。

福袋

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

正月らしいことは何一つせず、昼から出勤してひたすらゴミ…じゃないや福袋を売った。60袋くらい売れたんだろうか…。

三が日はアパレルとか飲食とか、サービス業の方々が一番大変な時期だと思う。肉体的にも、精神的にも。来る客は正月休み満喫してるし。腹立つー。

それでも声を枯らし、笑顔を絶やさず業務する店員さんには頭が上がりませんよ。偉いよ。閉店後の表情すごいけど。

今日はこのまま福袋を売る話をしようと思ったけど、つまらんだろうし俺の不満ばかりだし、仕事の守秘義務違反をしかねるのでやめます。福袋の中身の話をしよう。

買う人も売る人もだいたい知っていると思うが、福袋っていうのは基本的に店の余剰在庫を売るためのものだ。お店の在庫整理。ゴミ処(ry。

それをわかっていても買ってしまうのは、定価の半値とかで入手出来るというお得感と、何が入っているかわからないワクワク感からだろう。そうやって日本の福袋産業は続いてきた(誰だお前)。

だけど最近は、中身を全てオークションやフリマサイトで売って、福袋の買値より稼ぐ人がいるらしいんですよ。

確かに新品だと物によっては定価の8割くらいで売れたりするから、儲かっちゃうよね。

リスクを背負って福袋を買うより、目当ての服を定価より安く買ったほうがいいという人(俺なんだけどさ)にとっては聖者みたいな存在なんですよ。

こうやって、お店は在庫を掃き福袋を買った人はオークション等で儲けそれを買った人は得をするみたいな現象、みんなが得をしているように見えるけど、全員が利益を得るみたいな構造っていいんだろうか。法に触れたりしないのかね。

だってそんなうまい話ないでしょう。このご時世だよ?今の時代、ヤ○ザだってワープアらしいし。

経済学とか知らないからわからないが、こういう売買のやり方にはもう名前がついてるのかもしれない。「トリプル・ウィン」とか「win-win-win」とか「福袋商法」とか。ははは。

詳しい人いたら教えてください。

そんな感じで、俺は今日からオークションに張り付いて福袋から出てきた良品をゲットしたいと思う。

福袋を買うのに何時間列ぶのもいいが、これはこれでワクワク感があるからいいのである。

あ、おみくじ引いてないや。

初投稿

フォロワーであるアルファツイッタラーの鈴木ザ煉獄丸さんがブログを始め、なにやらとても盛り上がっているらしい。

他人のしていることは真似したくなる。ましてやそれがウケているとなると、ますますやりたくなる。くそ、悔しい。

前々からしっかり文章が書けるようになりたいなーとか、通勤中の車内でなんか出来ることないかなーとか(通勤時間は往復約2時間)考えていたので、そんな想いも相まってわたくしもブログを始めてみることにしました。

今年一年、手帳に5行くらいの日記を書こうと決めて、時々サボったりしたもののなんと今日まで続けることができた。飽き性だし面倒くさがりだけど、この達成感を糧にブログもやっていければなと思う。自信はないけど。


さて、何を書こうか。最近のイライラしたことについてでも書こうかな。

誰も読みたくないか。

怒りの感情ってのは本当に厄介で、後々考えてみると「そんなんで怒るなんてバカだなー」とか思えるのに、いざ怒りの場になると収まりがつかなくなる。

1人で怒っていればいいものの、なんとか復讐してやると意気込んでしまうこの癖は、理屈じゃどうしようもないのだ。ないのです。

この前も帰宅途中にとあることでイライラして、うちのマンションのエレベーターを8Fまで上げて(我が家は3F)帰ってきた。今考えるとアホらしいが、当時の自分には「俺が悪い目にばかりあっているんだからエレベーターに乗る奴も嫌な気持ちになれ」という邪念が沸々と湧き上がっていたに違いない。

俺がエレベーターを閉じた時、乗ろうとしてきた人影が見えたのでしてやったりだ。ざまあみろ不幸になれ死ねばか。

帰宅して着替えていると5分と経たぬうちに母親が帰ってきた。何やらご立腹である。

「ちょっと、私より先にエレベーターに乗った男、私が乗るの気付いていたのにドアを閉めたのよ。おまけに3Fで降りて8Fにエレベーターを止めたのよ。同じ階にこんな悪い奴がいたのね。」




………




「親の顔が見てみたいわ!!!」




鏡の前へどうぞ…って感じである。


こんな感じに史上最強の親不孝ぶりを見せてしまったりする。本当に怒りの感情ってのは厄介である。


感情のコントロールが上手な人は羨ましい。仕事だと割り切って沸々と湧き上がる怒りを鎮めたり、忘れたり。そんなことができる社会人を尊敬する。

でもそうして我慢することで精神疾患を抱えたり、自殺してしまう人が後を絶たないので、一概に羨ましいとは言えない。もうね、社会が悪い。悪いんですよ。俺が怒るのも社会が悪い。

悪にまみれた社会をサヴァイヴする社会人のみなさん、無理しないでください。


初回はこの辺でやめよう。文章の収まりも悪いし、何よりメッセージ性が皆無である。駄文である。何言いたいんだこいつ。

こんなんで読者はつくのだろうか。わからないけど、続けれるだけ続けたいと思います。

それでは、良いお年を。